教  育

2.徳島藩立小学校時代

 明治政府は、明治二年二月に「府藩県施設順序」を制定し、小学校の設置が規定された。 それに伴い、徳島藩では、明治三年十一月に藩立小学校設立準備態勢が整えられ、明治四年二月に旧徳島城内の西の丸に「西の丸小学校」を設置し、続いて寺島と助任、淡路の洲本に三校が設置された。

 その後、西の丸小学校を西校、寺島を南校、助任を北校、洲本を日新校と名付けられた。 現在の西富田・東新町地区の子供は南校に、西新町地区の子供は西校に入学することに定められた。

 なお、藩立小学校が出来るまでの幕末からの明治初期には、徳島藩には郷学校が設置されており、新町地区を中心とする商家子弟の教育のために、明治二年名東郡寺町の円徳寺に寺町小学校が設置された。 この校舎は、その後寺島学問所跡ほかに移されたが建坪150坪を持ち、幟町にも西富田の子校が設置されたというが、藩立小学校設置により、明治四年後廃校となった。

1.幕末期の教育機関
 江戸時代徳島藩の教育は、安政三年(1856年)江戸八丁堀の藩邸に長久館を、また徳島城内の西の丸にも長久館を設置し、儒・蘭・算・量地・剣・槍・弓・馬・砲などの文武両道の教育を行っていた。 しかし、庶民の教育は寺子屋や私塾に頼っていた。

 西富田・新町地区における明治初期までの寺子屋・私塾として、次の六塾が明らかになっているが、所在地等は定かでない。

塾  主  名 称 教  科 塾生数
毛利 秀彦 進修学舎 漢学 70人
米本 少蔵 不詳 漢学 50人
坂東源十郎 好古塾 漢学・習字 60人
岡本堅三郎 不窺塾 漢学・習字 150人
湯浅 蘭太 不詳 漢学 30人
岩本 大助 不詳 漢学 40人