モラエスは、ポルトガルの外交官・文人で、ヴェンセスラウ・デ・モラエスという。 1854年にポルトガルで生まれ、晩年を徳島へ移住し伊賀町三丁目で住まい、昭和四年(1929)だれに看取られることなく七十五歳で自宅で死去した。

 モラエスは、明治二十二年」(1889)、ポルトガル海軍士官として来日、更に十年後に神戸にポルトガル領事館ができると外交官として来日し副領事となる。 その後総領事として、大正二年(1913)まで勤める。

 副領事時代に宴席で出会い一緒に暮らすようになったのが徳島市出身の芸者「おヨネ(本名・福本ヨネ)」であったが1912年に死去、おヨネの死をとても悲しんだモラエスは翌十三年仕事も地位も捨て、おヨネの故郷徳島市に移住する。 住居は徳島市富田浦町字西富田1543番地(今の伊賀町二丁目)で長屋住まいの質素な暮らしをしていた。 長屋は中山孫七の持ち屋で、一階が二、三、六畳、二階が8畳で、当時の家賃は月三円五〇銭であったという。 おヨネの姪の斎藤コハルと同居し彼女の世話を受けていたが、コハルも四年後に死去し、異国で一人住まいしながら著述生活を送っていた。  

 当時、徳島市の人口は七万人ほどであったが、市民はモラエスがラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と並ぶ文豪であったことやポルトガルの外交官であったことなどあまり知られておらず、彼を相手にしてくれる人は少なかったようである。

 モラエスは神戸にいたころから、日本の政治、外交の様子をポルトガルの新聞に掲載するなど日本の紹介に努めた。 徳島に来てからも、阿波踊りや日本文化を記事にして紹介していた。 代表作に「おヨネとコハル」「日本精神」「徳島の盆踊り」などがある。

 現在建てられている「モラエス翁旧居跡」の標柱は、実際に住んでいた長屋の隣に建てられているという説がある。

 また、昭和五十年(1975)十一月にモラエスを永遠に忘れないために、伊賀町一丁目から四丁目までを「モラエス通り」と公民館を中心に俗称だが規定し、現在に至っている。

モラエス翁居宅跡・モラエス通り

文 化 遺 産