新町尋常小学校・新町小学校
 
 勧善小学校が明治十九年十月一日、新町尋常小学校と校名改称され、昭和十六年四月一日に新町国民学校と再度改称された。 その後、敗戦に伴う教育制度改革により現在の内町小学校と校名改称され現在にいたっている。

 明治十九年に新町尋常小学校として初等教育が展開されたが、明治三十三年八月に「小学校令」が改正され義務教育となった。 しかし修業年数は現在と違い四年制で「小学校令規則」に毎週二十八時間の授業時数であった。

 尋常小学校が義務教育となったが、就学率は低く中途退学者も多く、まだまだ教育への一般家庭の意欲は少なかったようである。 当時の教科書は今と違って文部省の作成した国定教科書であり、明治三十六年に修身教科書が国定化され、翌三十七年には国語・習字・歴史。地理が固定化、さらに四十年に理科が国定教科書となった。

 大正期から昭和初期の新町尋常小学校は、「務めるだけ務め、伸びるだけ伸び」(やれるだけやって伸びるだけ伸びよう)を目的として教育展開をし、大きな成果を上げていった。 このころから徳島の学習院といわれだしている。