富田尋常小学校・富田小学校
 
 明治六年二月に、藩公の東冨田御殿(所在地は「東冨田一三番地」、現在の徳島県庁東側部分にあたると考えられる)の建物を借り受け、これを稚松小学校と名付け、授業を始めた。 富田小学校の創立である。 明治八年に校舎を二か所新築して抽栄校と長勁校(前述)に分けた。 同十年一月に抽栄校を東冨田小学校に、長勁校を西富田小学校とした。 その後増築を重ね同十四年七月に両校を合併し冨田小学校と改め西富田校を分校としたが、同十九年に西富田分校は新町尋常小学校に編入され後に廃校となった。

 小学校令(明治十九年四月十日)の制定に伴い、冨田小学校は校名が「富田尋常小学校」と呼ばれるようになった。 なお、「尋常」に対しその上の学校として、「高等科」が置かれ、寺島小学校(現在の内町小学校)に徳島高等小学校が併設された。

 尋常小学校の教育年限は四年であったが、明治四十年三月二十一日小学校令の一部改正により、尋常小学校の修業年限を四年から六年に改め「義務教育となった。 富田尋常小学校も校舎の大改築を行い、学級数が十六学級という大校となった。 大正七年には二十七学級、大正十五年には二十八学級となり児童数も千五百名を超える大校となっている。

 太平洋戦争前の冨田小学校の教育は、他校と同じく戦争遂行に必要とされる小学校教育が展開された。 戦争は、民主主義の教育ということで、他校と同じく新教育課程の下で教育が展開されている。

【昭和二十年代は、大道・鷹匠町・栄町在住の小学生は新町小学校と冨田小学校のどちらの学校へ通学してもよかった。】