西富田の歴史
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 文治元年(1185年)、阿波・淡路・土佐三国の守護となった佐々木経高は現在の石井町白鳥に鳥坂城を築いて支配するが、阿波の代表的荘園である富田荘で狼藉を働き、富田荘の領主である大江泰兼に鎌倉幕府に訴えられる。 幕府の問注所(現在の裁判所のような所)はこの訴訟に対し、経高の非を認め、今後は狼藉を働くことを禁止するという将軍家の下文(くだしぶみ)を大江泰兼に与えている。

 西富田を含む富田荘(荘園)の存在が公的に明らかになったのは、元久元年(建仁四年、1204年)二月十七日の官宣旨(歴史民俗用語、平安時代以降太政官が弁官を通じて諸司・諸社寺等などに下した公文書)の端裏書に「富田荘建立宣旨立券案」と書かれており、春日社領となっている。

 承久の変(鎌倉時代、1221年)の戦功で、小笠原長清が阿波の守護となり、その子長経が阿波の守護代として阿波の武士を支配した。

 それまでの地頭に代わって新補地頭となったのが富田荘(現在の西富田周辺)の河野道久である。 彼はその後故郷の伊予三島に帰るが、その子河野道純が地頭となり支配することになった。 現在の三島神社は河野氏が伊予三島から遷座したと言われている。

 この富田荘(西富田一帯)は、天正十三年(1585年)蜂須賀家正が入国するまではほとんどが沼地であったようである。