西富田の歴史

3.人々の暮らし

 近代という時代は、明治以降第二次世界大戦までと大きくとらえているが、この時代は富国強兵を中心とした国造りの時代と言えよう。

 戦争へとひたむきに進む昭和十年代前半以前は、大正デモクラシーと言われるようにおおらかな日本であった。

 子どもたちは、戦争美化のくらしの中にあっても、節句やお祭りなどでは遊山箱に御馳走を詰め、友達や家族と楽しく語らいの場を持っていた。 この遊山箱は徳島伝統のもので、現在も多くの人に親しまれている。


      


 しかし、戦争への道を歩み出してからは、西富田地区においても生活や教育が一変する。 現在の婦人会に当たるものとして、「愛国婦人会」や「国防婦人会」が組織され様々な国の活動に協力することとなった。

       


 一方、学校教育においても戦争や兵隊に焦点を当てた教育が展開されるようになり、教科書もその趣旨を活かした編纂がなされている。

   
 兵隊については、当時は徴兵制であり、国民は兵役の義務があった。
兵隊に就くには、男性は徴兵検査があり、「甲種合格」、「乙種合格」という仕組みで兵役に就いていた。 一方体調や年齢によって「「丙種」の人も兵役に従事することとなった。 通称「赤紙」と呼ばれる召集令状を受け取ると、家族や町内の人々の「万歳、万歳。」の歓呼の声で送られ、徳島市内の多くの出兵者は春日神社で戦勝祈願し出兵して行った。

       

2.西富田の町名変遷
 
 西富田の貴重な文化財の一つとして、城下町の姿を伝える道筋とその名称を挙げることができる。

 現在使われている名称は、昭和十五年十月二十九日の徳島県告示第七二二号(同年十一月十日より実施)で告示された町名であるが、その元は文化九年十二月の普請奉行の「島々丁名改目録」(既述)に示された丁名である。

「文化九年の丁名」 御石丁 伊賀士  御弓丁 幟丁 大道 鷹匠町 定普請丁
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「昭和十五年の町名」 伊賀町 伊賀町  弓町 幟町 大道 鷹匠町 栄町

 このような変遷をみているが、文化九年と昭和十五年との間に、徳島市が市制を敷いた明治二十二年六月二十九日に告示された徳島県令第三十号「市制町村制施行ニ付市町村区域名称等別冊ノ通相定メ本年十月一日ヨリ施行ス 但シ合併シタル旧町村ハ大字トシテ之ヲ存ス」によると、西富田地区の大部分は徳島市富田浦町となっている。

 <表示例>徳島市弓町一丁目は、 徳島市富田浦町字西富田○○番地
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1.徳島の文明開化

 わが国における文明開化の顕著な例として、鹿鳴館における社交の場としてのダンスパーティーが有名であるが、徳島県におけるダンスの始まりは西富田である。

 東京へ本県から出張などで出かけた多くの人たちが苦労したのがダンスであった。 上京すると、ダンスホールに案内されるが、正式なダンスを踊っていなかった当時の人たちは非常に苦しい体験をしたという。 そこで、徳島でもダンスホールを作ろうということになり、昭和八年、徳島市伊賀町の偕楽園別館ホールで純然たる社交場としてのダンスホールが開場された。 別館ホールは、現在の偕楽園前の道路の反対側に位置していた。

 初めてとあって、ダンサーは大阪の尼崎ホールから派遣されているが、本県からも研究生として、五名が参加したということである。

 経営者の阿部浪三郎さんが、立木・立石両県議等の後援を得て開場したということで、当時を知る人は、ハイカラな人たちが変な踊りをしていたと述べている。 徳島の人たちから興味を持たれていたようである。

 ダンスホールで踊るチケットは、一曲(約三分)当時のお金で十銭であった。 ダンスで踊る曲は、ブルース、タンゴ、ワルツなどで、ブルースは「別れのブルース」、タンゴは「アルゼンチンタンゴ」がよく踊られていた。

 当時珍しかったダンサーは、伊賀町一丁目の公務員宿舎前の道路を挟んだ角地に宿舎が用意され、そこで生活をしていた。