大昔の西富田
今から約5000年前(紀元前3000年前)は私たちの住む西富田地区はもとより徳島市は海中にあった。
新石器時代前半の縄文時代、現在の徳島市は海に浸っていた。波は、城山や眉山の麓まで打ち寄せており、それを証明するものの一つが城山の貝塚である。
西富田地区にも海であったことを証明する海食痕が残っている。徳島市伊賀町1丁目の徳島グランドホテル偕楽園前のサーパス伊賀町の前庭にある巨岩である。巨岩の道路の反対側に海食痕が残されているが、だんだん風化され見えにくくなっている。
もし縄文時代、縄文人が眉山で生活し
ていたとすれば、徳島市城山の貝塚遺跡
から発掘されたようなハマグリやアサリ
カキ、ハイガイ、シオフキなどを食して
いたと考えられるが、縄文人が生活して
いたという根拠は現在なにも確認されい
ない。
弥生時代4世紀ごろ、眉山南東端の勢見
山山頂(109m)に勢見山古墳(通称佐々木
の抜け穴)が立地されている。古墳の内
は竪穴式石室で、首長のシンボルとみら
れている。墳頂部には「天武天皇中宮摩
那賀姫命之墓」の石碑が建っていたが、 <海食痕のある大岩>
今は原形をとどめていない。
徳島市の象徴である眉山の地質は三波川帯の変成岩であり結晶片岩類でできている。全国的にも珍しい紅簾片岩(紅簾石片岩)を江戸時代には産出していた。