西富田の歴史
職能集団の地図
藩政時代の西富田
 蜂須賀家正による天正十五年の徳島城築城後、城下町の区画整理が行われ、徳島、寺島、出来島、常三島、富田、佐古などの地名が見られるようになる。 徳島の城下町の起こりである。

 その後、城下内外の配置、整備が進められ、今の西富田を中心とした下級武士の屋敷町が形成されていく。

 江戸時代後期には、伊賀士丁、御弓丁、幟丁、鷹匠丁、定普請丁、餌指町のように、住む武士の職能を表す町名が見られる。

 西富田地区は武士の職能集団としての城下町であった。

 文政(1818~29)の頃に作成された分限帳「阿洲徳島御家中録」によると、伊賀士町(伊賀町)の山手側に、箕浦・森脇・坂田・赤堀・大島・小沢・反対側に、平井・小野と九人の伊賀役屋敷があったという。 伊賀役は戦時中は諜報活動や謀略活動など、隠密の役割を果たしていた。 平時には、徳島城内の表御殿「伊賀士詰所」に勤務していて、城中警備とともに情報の収集にあたっていた。

 御弓丁には、御弓の者が二組、合計六十人ほどが配備されていた。 戦の場では本陣を守備する親衛隊で、卒の中では最高の身分であったという。 平時は、徳島城の見張り・町目付・御仕置屋敷の事務にあたり、十人ほどは江戸屋敷の警備を務めていたという。

 幟町の中ほどに、御幟の者(旗の者ともいう)一組、二十人余りの集団住宅があった。 幟を持って本陣を固める者で中老格の者が「旗頭」となって支配していた。 幟の者の他はほとんど弓組と鉄砲組の住宅が占めていた。

 大道は、南方(土佐街道)から徳島城に至る主要な街道筋である。 また、海路をとって城下へ入る者は、津田川口から御座船川をさかのぼり、大道を経て徳島城へ向かうのが通常であった。  大道は、一丁目を除いて持筒(もちつつ)の者が三組、合計八十人ほどが配置されていた。 持筒の者は鉄砲組より一級上位で、戦時には小筒(小口径砲)を持って本陣を親衛する役割を担っていた。

 鷹匠町は、名前は鷹匠町であるが鷹匠は二人住んでおり、他に佐古方面にも住んでいた。 藩の鷹屋敷は伊賀丁の国端彦神社の北隣にあり、各鷹匠は拝領した屋敷に鷹部屋を作り、藩の鷹を預かり飼育訓練していた。

 栄町は、もと定普請の者がいて定普請丁と呼ばれていた。 ここには四組約八十人の定普請の者がいて、平時には作事奉行の配下にあり、城の補修工事などに当たっていた。 戦時には長柄(ながえ・長い槍)をもって鉄砲組の後を警備する役目を担っていた。 それで長柄者と普通呼ばれていた。
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